サンダカン八番娼館

文化座(市民劇場195);95/07/10;金沢市文化ホール
山崎朋子作;ふじたあさや脚本;鈴木光枝演出
鈴木光枝/佐々木愛/鳴海宏明/有賀ひろみ/斉藤三勇

●知か情か
ノンフィクションに基づきそれを脚色したような芝居は苦手である。観る前はいつも気が進まない。その理由は,こういう芝居は,たいてい反戦,反差別といった批判できないような主題を持ち,「かわいそう」という妙に情に訴えてくるものが多いからである。

今回の作品もそういう作品の一つだったが,少し感触が違った。

まず,劇の前半は,原作の著者らしき人物が登場し,その人物のナレーションを交えてノンフィクションの雰囲気で話が進んだ。このあたりの「これから何が起こるのだろうか?あのおばあさんは過去を語り始めるのだろうか?」というサスペンスに満ちた感触は意外だった。

ところが,劇の後半になり,ナレーションがそのおばあさん自身に変わると,激動の女の一生というNHK朝の連続テレビ小説の世界に変わった。「やはりこうなったか」と予想どおりの展開に,ややがっかりした。

ただし,歴史を客観的にとらえようという知的な研究者的視点から観客の情に激しく訴えようという視点への移行は,観客をドラマに引き込むための手段とみると大変効果的だった。この自然な視点の移行がこの劇のポイントだったと思う。この流れに身を任せて観た人はとても満足できたのではないだろうか?

しかし,私は,からゆきさん研究者の視点にこだわってしまい,このドラマをやや冷めて観てしまった。こういうノンフィクションに基づく芝居は結局は情に訴えることしかできないのではないか?その分,内容では原作には劣るのではないだろうか?とやけに難しいことを考えてしまった。この辺にこういうタイプの芝居の難しさを感じた。情に訴えるということも悪いことではないが(演劇の大切な要素だと思うが),こういうノンフィクションに基づく作品だからこそ冷静に考えたい気が私にはした。夏目漱石の「草枕」の冒頭の文章のとおり何事につけ知と情の両立は難しいのかもしれない。

PS。前回の感想文集でやけに声が聞こえなかったという感想が多かったので,声の通りのチェックをしてみた。さすがに今回はちゃんと聞こえた(金沢市文化ホールの後ろの方)。実は,前回も(野々市フォルテの真ん中あたり)私にはちゃんと聞こえたので,前回の金沢での上演の時だけよっぽど調子が悪かったのかもしれない。ただ,印象としていつも野々市でのお客さんの方の反応が良いような気がするのも確かである。このことは野々市会場の声の通りの良さと関係しているような気もする。
inserted by FC2 system