フィガロが結婚

地人会(市民劇場199);96/02/09;金沢市観光会館
ボーマルシェ(原作)/木村光一(脚本・演出)
木場勝己/西山水木/金内喜久夫/新橋耐子/中村たつ/瀬下和久/仲恭司/はせさん治/丸林昭夫/日下由美

●音楽のないオペラ
「フィガロの結婚」といえば何といってもモーツアルトのオペラとして有名である。「の」が「が」に変わった今回の作品も、まず、このことを意識せざるを得なかった。筋や結末は知っていたので歌舞伎十八番か何かを鑑賞するような気分だったが、率直に言うと「オペラから音楽を取っただけみたいだ。やはりオペラの方がよい」と感じ、違和感が残った。

まず、「フィガロ」といえばあの有名な序曲である。このメロディは外すわけにはいかないということで、合唱にアレンジされた序曲で幕が開いた。この序曲で幕が開くことが頭に刷り込まれている私は取りあえず安心した。しかし、その後は欲求不満が続いた。筋の流れはオペラと同じなのに、ここという時にシェリバン(やはりこれはイタリア風にケルビーノと言わないとピンとこない)の「自分で自分がわからない」は出てこないし、フィガロの「もう飛ぶまいぞ」も出てこない。シュザンヌのギターにあわせて歌う「恋とはどんなものかしら」も全然違う曲になっていた。伯爵夫人もオペラだと憂いを含むアリアを歌い、悲しくはかなげな雰囲気を漂わせているのだが、今回の伯爵夫人はそういう雰囲気は全然なかった(だけどこの伯爵夫人は面白くて,とても良かった。)。最後の幕で伯爵が夫人に許しを請う場面も、オペラだと「許してくれ」とただ歌うだけで感動的に響くが、音楽がないとなぜ許してもらえるのかが伝わらず、非常に軽い結末のように思えた。

オペラの方はこの最後の許しの場に象徴されるように「愛」がテーマだが(そのためにこのオペラは普遍性を持っていると私は思う。)、今回の「フィガロ」はいつもは偉そうにしている貴族に仕返しをする「反体制」ということを強調し、フランス革命時代の原作に立ち返ろうとしていたのかもしれない。そのことは最後の場でシュザンヌが裏切っているのではないかと悩みながらフィガロがアドリブ風に延々と独白をする場面に表れていた。しかし、これ以外の場面はこの「反体制」的な雰囲気がなく、かえってこの場面だけが浮いているように思えた。それ以外(とタイトルの「の」を「が」に替えたこと)にはオペラと「ここが違う!」という点をあまり感じることができなかった。むしろ、上述のように音楽の足りなさばかり感じた。

このように、オペラを思い浮かべると何となく物足りなく思うのだが、それぞれの役者さんはさすが地人会ということでとても良かったと思う。特に伯爵夫人、マルチェリーナ、スザンナの女性3人が印象に残った。最後の方で「全くこれは!」というセリフばかり繰り返していたバジルも面白かった。また、オペラの方ではあまり感じられないスペイン情緒もなかなか良かった。

というわけで、「フィガロといえばオペラ」と条件反射してしまう私には、公正な感想を書く資格はないのではないだろうか?と感想の最後になってやっと気付いた。

PS.観光会館ホールの両サイドは残響が多く早口のセリフがほとんど聞き取れなかったので後半は中央の最後列に移動してみた。こちらの方はよく聞き取れたので、座席によって評価が分かれるのではないかと思った。何はともあれ平べったくて広すぎる観光会館での例会はよくないと思った。
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