頭痛肩こり樋口一葉

こまつ座(市民劇場201);96/06/07;野々市文化会館
井上ひさし作/木村光一演出
淡路恵子/順みつき/未来貴子/高橋紀恵/大西多魔恵/新橋耐子

●再演は傑作に限る
井上ひさしの作品は,このところパッとしない感じもするが,エンターテインメント性と内容のバランスがうまく取れた時,「これが演劇だ」としか言いようのないような充実感をもたらす。今回の『頭痛肩凝り樋口一葉』もそういう作品だった。こういう「傑作」こそ再演の意味があると改めて感じた。

この作品は樋口一葉という明治時代の女性作家の伝記モノという形を取りながら,それだけに納まらない楽しさと深さを持っていた。昨年観た『キュリー夫人』に代表されるように伝記モノはエピソードのただの積み重ねに終わってしまうものが多いが,『頭痛肩凝り』には観ているうちに樋口一葉の伝記であることを忘れてしまうような普遍性を感じた。これは作品の構成の見事さと花蛍をはじめとする登場人物の魅力による。

この作品は毎年のお盆の出来事を繰り返しているだけの構成なのだが,その繰り返しがとても面白い。毎年「ぼんぼんぼんの・・・」と同じ歌が聞こえ,毎年同じ来客があり,毎年同じように借金を頼み,毎年同じようにそうめんを食べ,毎年同じ幽霊が出て・・・という意識した繰り返しとそれを微妙に裏切るような登場人物の境遇の変化の連続。この辺の巧さは井上ひさしならではである。笑いながらも人生を感じた。いきなりコウさんとヤエさんが幽霊になってしまうような展開は,考えてみるとかなり悲惨なはずなのだが「これが人生なのだ」と納得してしまい,「そこは芝居でさぁ」と笑ってしまった。全般にこの作品の設定は悲惨なはずなのに,全体のトーンが暗くなっていないのは,繰り返しと意外性の連続という心地よい筋の流れのためだと思う。しかも,そのトーンがお盆という日本的で仏教的な雰囲気ともよくマッチしていてとても気持ちが良いのである(『大霊界2:死んだら驚いた』という感じの明るさか?)。

全体のトーンを明るくしているもう一つの理由は言うまでもなく花蛍というキャラクターである。因果の糸を地道に追う心優しい幽霊というキャラクターは井上ひさしの作品の中でも特に魅力的なものである。お客さんを全部味方につけたような,俳優にとってはとてもやりがいのある役だと思う。確か前回の金沢での上演のときは新橋さんが病気か何かで出演されていなかったので,今回は大いに期待したが,そのとおりの面白さだった。こういうのこそ当たり役というのだろう。新橋さんは『フィガロが結婚』でも面白い伯爵夫人役をうまく演じられていたので,市民劇場賞助演女優賞というのがあるとすれば新橋さんで決まりである。その他にも前述のコウさんとヤエさんという宝塚と歌舞伎を混ぜたような雰囲気のキャラクターも良かった。特に,コウ役の順みつきさんが最後の方で字余り気味の歌詞を低い声で聞かせる独特の歌は心に染みた。劇のクライマックスをうまく作っていた。

以上のような構成とキャラクターの魅力に加え,女性の自立というテーマもしっかり描かれていていた。世間の象徴としての母のタキ,世間に反して自立しようとする(現代的な)女性の象徴としての一葉,世間に疑問を持たずに生きていく(当時の)普通の女性の象徴としての邦子という3人の葛藤も見応えがあった。これは現代にも十分当てはまる葛藤である。ただし,この葛藤だけを描いていたら,暗いだけの話になっていた思う。本来は一葉を中心とする三角形の家族ドラマを,花蛍などの架空のキャラクターで六角形に膨らませて井上流のエンターテインメントに仕上げたのがこの作品といえる。タキの両脇に一葉と邦子,花蛍の両脇にヤエとコウという女性ばかり6人の配役のバランスにはこれしかないという形式的な美しさも感じた。エンターテインメントと内容のどちらもが突出することなく渾然一体となって区別がつかなくなった時に「傑作」が生まれると私は思うが,今回の作品はまさにそういう作品だったと思う。

以上のようにとてもよく出来た作品だったが,唯一気になったことは主役が誰かわからない,ということである。楽しめれば誰が主役でも良いのだが,タイトルに『樋口一葉』とあるだけに,一葉役の人にもう少し個性があれば良かった。もっとも,新橋さん,淡路さん(これもピッタリの役だった。),充実した歌を聞かせる順さんというオイシイ役ばかりのベテランの脇役の中で一葉が目立つことは無理なのかもしれない。主役が誰かわからなくなるような芸合戦,というのも井上さんの意図したことだとしたら,これはこれでなかなかすごいことである。
inserted by FC2 system